「言葉じゃないから伝わることがある。」株式会社リリムジカ

Written by somode 7月 10th, 2012

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「言葉じゃないから伝わることがある。」

株式会社リリムジカ

 

 

国境もなく、言語や概念に縛られることもなく、困っている人がいれば困っていると認識する前に手が差し伸べられ、愛があるならば、愛しているよと告げる前に抱きしめている。

 

ええと、なんのことだと思いますか?

これは、200年後の世界です。

正確には、彼の頭の中に見えている今から200年後の世界です。

 

彼は、小さい頃から剣道が強くて男気があり、目立ちたがり屋で、高校ではちょんまげ、大学ではモヒカンの頭になり、そんな彼も、素敵な奥さんと先日結婚式を挙げました。奥さんにサプライズで手作りの指輪をあげていました。彼らの結婚式で流れていたthe Beatlesの”Ob-La-Di, Ob-La-Da”に率先して手拍子をするような、人見知りと無縁な一歳七カ月の息子もいます。奥さんのお腹の中には二人目の子供もいます。台湾人の両親を持ち、日本で生まれ日本で育った日本人で、年は26歳、名前は管偉辰(かんいたつ)といいます。リリムジカという会社を4年前につくり、介護の現場でだれもが楽しめる音楽の場づくりをしています。

 

タイトルの一節は、彼がとある機会に、「200年後の世界」を想像して書いた文章の一部です。

「なんだ、夢物語か」

などと、一瞬でも思うことが恥ずかしいくらい、彼はこの話をごく自然に、真顔で話してくれました。

「誰にだって、楽しいことができる選択肢ってあるはずだよね。」

 

介護施設の利用者さんと、施設の職員さんと、一緒になって音楽を楽しむ。各々が好きなように、各々のペースで、音楽に触れ、話し、楽しむ。そうして、みんなで、その場でしかできない「いい感じの時間」を紡いでいく。

リリムジカはこういう仕事を、プロとして、月に数十か所の介護現場を忙しく走り回りながら日々活動しています。

 

 

介護と聞いて、思い浮かべるものはなんでしょうか。

 

私の頭にぱっと思い浮かぶ介護は、している方も、されている方も、大変なイメージです。

 

いずれ、10年後か20年後かわかりませんが、私も親の介護をするかもしれないし、その前に私自身どこかが不自由になって、介護を受けることになるかもしれません。

 

老い、事故、病気。誰でもその当事者になりえます。特に老いは等しく誰にでもやってきます。これはごく自然なことです。

そこで、ずっと自分で自分の面倒をみられるならいいですが、なかなか現実そうはいきません。そうして、周りの人の力を借りることになります。これもごく自然なことです。

 

介護施設と言っても様々なタイプの施設があります。そしてその利用者さん一人一人に、それぞれの事情・状況があります。身体機能が著しく低下していたり、認知症の進行が進んでいたりする方も多くいらっしゃいます。

そこで、介護施設の職員さんたちのサポートを必要な分だけもらって暮らしています。

性格もそれぞれ。全く喋らない方や、頑固な方、てきぱきと職員さんの手伝いをする方や、言葉のメリーゴーラウンドと言えるほどにくるくるいろいろ楽しそうに喋る方。

 

そしてそこに、彼、彼女たちのそれぞれの生活があります。

 

ここで唐突ですが、私の夢の話(!?)をしてもいいですか?m(__)m

 

私の夢は、私の孫に、

「俺はじいちゃんの意志を継ぐ!」

と言わせしめて死ぬことです。

 

なぜなら、私自身が両祖父に対し(勝手に)そう思っているからです。

両祖父とも頑固一徹で、自分の信念を貫き、片一方はあるとき私をべた褒めし、片一方はあるとき私の人格を否定し、しかし二人とも不器用な愛に溢れていました。

「あ、今、岐路かもしんない。人生の。」

と思った時には、私の頭の中に、今は亡き二人が、ぬんぬん、と出てきます。そうして私は、二人が「よし。」と言う方向を選んで進んでいます。(たまに二人に怒られて、すねたりもします。)

今も、私の頭の中で、一人はTVの向こうの政治家にうるさく舌打ちをつき、一人はドラクエのレベルを「たたかう」コマンドのみで99まであげたりしながら、私の規範として生き続けています。

彼らは自分の思ったように、よく遊び、よく学び、よく楽しんで死んでいきました。

少なくとも私にはそう映っていました。

私は、彼らみたいに、尊厳を持って自分で道を選びとり、生きて、死にたいと思っています。

 

そして、(まだ見ぬ)孫が目を輝かせるような尊厳のある背中になるためには、

よぼよぼになり、そして目を閉じるにいたるまで、真摯に遊んで、学んで、楽しまないといけないな、と思っていますし、そうやって僕が(勝手に)受け継いだ意志を繋いでいきたいと思います。

 

なぜこんなことを書いたかと言うと、

こんな考えの私が、

「将来介護を受ける側になったら、リリムジカがサービスを提供している施設に入りたいな」

と、取材を経て思ったからです。

 

介護を受ける側になっても、楽しむことを当たり前のように大事にする。施設に入っても、自分でお金を払って、楽しみを選択していきたい。と。

 

ではリリムジカは実際に何をやっているのか?

それは、繰り返しになりますが、「介護施設における音楽の場づくり」です。

 

音楽の時間(「セッション)と呼んでいます)の内容はいたってシンプルで、利用者さんたちと一緒に歌を歌ったり、楽器を鳴らしたりします。

そこでリリムジカのスタッフが、伴奏を弾きながら、話しながら、「いい感じの時間」をつくっていきます。

 

 

歌は主に民謡・童謡・歌謡曲。

365歩のマーチ、東京ラプソディ、月の沙漠、ふるさと、・・・レパートリーは膨大にありますが、その中でその施設の利用者さんや季節などに合わせて奏でていきます。

 

歌が大好きで、前方に大きく貼られる歌詞を見るやいなや、伴奏の前に歌い出す方がいれば、その方の歌(のリズムとテンポとキー)に合わせて臨機応変に伴奏を合わせます。

「Aさん本当にいろんな歌ご存じですよね~」

「若いころはもっといい声が出たんだけどね~よく歌ったものだわ~」

「そんなにお上手なのだし、さぞかしモテモテだったんでしょうね~w」

「今ではしわくちゃになっちゃって~やだわ~w」

なんていう会話をしながら、同時にあまり喋らない方ともアイコンタクトをし、話しかけ、場を緩やかに進めていきます。

タンバリンを渡されても叩こうとしない方がいれば、とりあえず持ってもらって、代わりに音に合わせて叩いたりもします。

 

 

実はこうした働きかけ、注意の配り方は、毎回セッション後に施設職員の方との「振り返り」の時間を設けることで、共有しながら洗練させていきます。

「振り返り」は、セッション全体に対しても行われますが、利用者さん一人一人に対しても入念になされます。

 

「Bさん、前回楽しく歌っていたのに今回はあまり乗り気じゃなかったですよね。体調は最近どうですか?」

「いや、昨日も元気だったし、体調はいいと思います。」

「今日渡した楽器は初めてでしたね」

「単純に叩きにくかったのかもしれない」

「じゃあBさんには今度はもっと軽く握りやすい楽器を渡してみましょうか。」

 

「Cさん、今日は一番前の席に座っていただいたんですが、じっと歌詞見てくれていたし、楽器も触ってくれたしよかったですね。いつも、シャイで後ろの方で参加しにくそうにしていたので。いっそのこと前の方に出てもらうくらいがちょうどいいかもしれませんね」

「それでは、席の配置は、Cさんはひとまずここで固定してみましょうか。」

 

こうしたやりとりを、ときにはセッションの時間自体よりも長く行うことで、利用者さんの、性格、体調(または病状)、好み、人間関係、などを複合的に分析し、リリムジカは次回のセッションに、施設職員の方は日々のコミュニケーションとケアに、それぞれ活かしていきます。

 

人が違えば、楽しみ方・趣味・指向・病状・性格や、心地よい距離感も違うので、つくりあげる「いい感じの時間」やその弊害ももちろん異なってきます。そして答えはありません。なので、現場によって、それぞれの職員さんたちと、それぞれ一から組み立て改善を重ねていくことになります。

 

足立区特別養護老人ホーム「グレイスホーム」にて

 

一回一回のセッションでの「楽しいいい感じの時間」をつくるために、内部にどっぷりコミットし、長期的・継続的に関わっていきます。

 

ちなみに、私が取材したときのこの「振り返り」の時間では、音楽自体の話はあまりしていませんでした。セッションの目的は、利用者さんに上手な演奏を聴いてもらうことでも、利用者さんの演奏を上達させることでもありません。

 

「伴奏を弾いているとき、うまく弾くことよりも目を合わせることのほうが重要。」

というスタッフの梅田さんの言葉からも伺えるように、

目的はただ一点、

「利用者さんにいかに心からこの場を楽しんでもらうか」

ということで、音楽はその最高のコミュニケーションツール・手段にすぎません。

 

しかし、これは「音楽性は二の次」ということではありません。

聴いていて心地よく、スムーズで、かつリアルタイムの空気感に合わせて柔軟に対応していく音楽(伴奏)というのは、非常に高い音楽スキルが必要です。

例えば認知症の方などはそうでない方に比べ、感覚が非常に敏感になっているそうです。そしてまた、自分がどう思われているのかということについても、敏感になっているそうです。

こうした方々に、雑な演奏、雑な対応をしてしまうと、一気にその方の自意識の中で尊厳が失われかねません。

 

「おままごと?お遊戯?子供じゃないのよ?私が年寄りだからといってバカにしてるの?」

 

取材させていただいた「グループホームひかり 横浜本郷台」を運営している、ルミナス株式会社の奥津さん曰く、ヨーロッパでは介護施設にプロの音楽家が演奏をしにきて、それを施設の利用者は正装できちんと聞くという文化があるそうです。

文化の違いがあるので、日本でも正装で聴くべき、ということではありませんが、質の高い音楽は、それだけで人の心を動かしますし、日常にあるだけで生活は豊かになる、とのこと。

 

介護の場における音楽とは、コミュニケーションスキル、そして音楽スキルの両方において、求められるレベルは非常に高いのです。

 

音楽は人を問いません。

この、音楽による「いい感じの時間」では、誰でも、好きなときに、好きなように、好きなペースで参加できます。

 

曲にまつわる子供時代の思い出話をする方もいれば、だまって足でリズムをとる方もいます。打楽器でも鈴でも、好きな楽器を使っても、使わなくても個人の自由です。緩やかなだいたいのタイムテーブルはありますが、基本的に場の空気に合わせます。

 

音楽は常に私たちの日常に密接していて、また、言語・世代を越え、人の感情を揺さぶることができる普遍的なツールになります。

(仲間と一致団結して鼓舞するために歌った文化祭のテーマソング、子供のころの情景がぱっと思い浮かぶテレビアニメの主題歌、好きな人がカラオケで歌っていた流行歌。

カフェで陽気なボサノヴァが流れていればつい楽しくビールを頼んでしまいますし、jazzbarの音に身を委ねながら、気のおけない人と深い対話をすることもありますよね。)

そして音楽は、人の癒しとなり、心を揺り動かし、整え、そして人の心を繋ぐことができます。

 

みんなで協力して音を奏でるトーンチャイム

 

介護施設での生活は、家族もいなければ、友達がもともといるわけでもありません。身体の自由度は限られているし、かなり生活の幅は限定的となります。

だからこそ、一人一人が心から楽しむということ、自然なコミュニケーションをとること、そしてそこから生活の豊かさが生まれるということ、こうしたことのために、音楽は最高の手段となるのです。

 

「介護施設での生活」。

正直、私は具体的に自分に置き換えてイメージすることができません。自分で起き、ご飯を食べ、外出をし、仕事をし、仲間と遊び、好きな所へ行き、好きなことを学ぶ。

 

乱暴な表現になりますが、こうした当たり前の「自由」とはかけ離れたところに介護施設はあるような気がします。

 

施設の職員さんも手足は2本ずつしかありませんし、時間も一人一日24時間しかありません。体力的にも、また経営的にも、「生活の豊かさ」という分野の優先順位は低くせざるを得ない現実があります。

音楽がなくても人が死ぬことはありません。

「当たり前」といえば「当たり前」ですが、この「仕方がない」という感覚と、職員さんやボランティアの方の献身・善意に、社会全体が甘えている、見て見ぬふりをしているような気がします(私も含めて)。

 

では、誰が頑張ればいいのか。家族か。いや、身内だって、やむにやまれぬ事情があります。

 

プロとしてこの仕事をするリリムジカの意義はここにあるように思います。

 

ボランティアの方が介護施設で音楽の時間を担当する、という事例はよく聞きますし、それは利用者さんにとっても施設さんにとっても喜ばしいことです。これからもっとそうした心ある人々が今以上に増えるといいなと思いますし、増えていかないといけないとも思います。

 

しかし、ボランティアの弱点は、責任の所在が曖昧で、それはつまり、(利用者さん・施設の方に)どこまで踏み込んでいいのかわからないということです。

また、もちろん本業ではないので、さける時間も限られています。

そのため、よっぽどのタフネスがあり、おせっかいで、一日24時間以上ある(ように見えるくらいパワフルな)人、もしくは、よっぽどのお金持ちでもうお金を稼ぐ必要がなく時間もある人以外は、なかなかつっこんで関わることができません。

そもそもこうしたコミュニケーションに関わる仕事は、ゴールがありません。

ゴールがないからこそ、ボランティアの善意に頼りがちになり、そのマンパワーを無制限に疲弊させモチベーションの落とし所がわからなくなります。

そして少子高齢化社会の進行によりますます高齢者は増え、こうした方々の負担は増えていきます。

 

そこで、そのボランティアの道標となるような、プロの存在がやはり重要になってきます。

 

リリムジカは、基本的には施設さんではなく利用者さん自身(もしくは親族の方)からサービス料をいただきます。

ただ音楽の時間がもともとあるからとりあえず参加する(させられる)のではなく、きちんと「音楽の時間」に理解を示してもらい、選択していただく。

その代わり、責任を持って、しっかりと深くコミットして、音楽を通して利用者さんと向き合う。

 

「おままごと?お遊戯?子供じゃないのよ?私が年寄りだからといってバカにしてるの?」

と思われた時点で、利用者さんに解約されてしまい、施設との信頼も失います。

 

現場のスタッフでリリムジカの創業者でもある柴田さんを見ていると、そのセッションの質の高さに驚かされます。(特に昔の)歌の知識、場を読み、緩やかにリードしていく能力、その上での演奏(テンポ・リズム・キー)の柔軟性、人の仕草に注意を払う観察力、話を聴く能力、場をほぐすユーモアと愛嬌、介護・病状に関する専門知識・・・あげればきりがありません。

代表の管さん曰く、もともと前に出るタイプではなかったというから驚きです。

 

毎日現場で、求められるレベルの高いニーズに応えようと自力で努力・改善を積み重ねてきたからこそのものなのかもしれません。

 

また管さんは、

「この仕事で求められる専門性は確実にあるし、そのノウハウを積み重ねてきた自負はある。」

とも言います。

ボランティアではなく、プロとして介護業界に入り、こういう働き方をする道を選んだ覚悟が伺える言葉だと思います。

 

そして、

「柴田さんが個人的に能力があるからできることでしょう、と言われることに対してもNOと言えるようになった。(もう一人のスタッフの)梅田の成長が著しい。リリムジカに飛び込んでくれてから一年がたち、客観的にもいいサービスを提供していると今では自信を持って言える。」

とも言っていました。

私は梅田さんのセッションを見て、はっきりとしゃべり、堂々としている方だな、と感じたのですが、そのあとプライベートで話してみると、実は声も小さめで、穏やかにゆるゆると話す方でした。

管さんは、こうした現場スタッフの成長を確かな手ごたえとして感じ、今後、専門スタッフの養成プログラムと、ボランティアや介護職員のスキル底上げを狙ったセミナーを同時に進めていくとのことです。

 

セッション合間、管さんと梅田さんミーティング

 

最近「自分の生きたいように生きる」と声をあげている人が周りに増えてきている気がします。

「自分の生きたくないように生き」ても、そもそも安定が保証されなくなったとか、生きたい道や仲間がみつけやすくなったとか、いろいろ理由はあるでしょう。手厳しい時代ですが、「自分で選ぶ自由」は可視化されてきている印象があります。

 

では、例えば、介護の世界においてはどうでしょうか。

 

「少子高齢化」、なんていう言葉は聞き飽きるほど毎日のように耳にし、そしてそれはこれから確実にもっと耳にするようになります。もう今更あえて言うことでもなく当たり前、社会の前提になってきます。

 

それと切っても切り離せない介護。恥ずかしながら、その介護に対する、「きつい」とか「辛い」とか、「仕方がない」などというイメージ。

豪華で豊かなサービスを提供している老人ホームもありますが、そうした施設に入居するには何千万というまとまったお金が必要なのが現状です。

はたして、日本人の、何%の人がそうした施設に入ることができるでしょうか。

 

今でもこんなに問題になっているのに、10年後、20年後、30年後、、、そして自分の老後。

考えるだけで気が滅入ります。

 

介護の業界で働いている方は、人として、優しく強い素敵な方々が大勢いらっしゃる印象ですが、そういう人たちのマンパワーだけに任せるには、あまりにも問題は大きく、構造的で、かつその進行は不可逆的なものです。

 

そんな中、リリムジカはある意味、希望の一つなのだと思います。

人の善意のみに頼ることなく、第三者として、介護を受ける方の生活を豊かにし、きちんと正当な対価を得る。

「いい感じの時間は本来だれにでもつくれる。音楽以外でも、こういう活動をする人が増えてほしい。」

彼の言葉の通りになると、みな、等身大で、自然に生活を楽しんでいくことができるのではないでしょうか。

 

もちろん、高齢者の増加と病床の減少のダブルパンチ、身寄りがない高齢者の孤独死など、生きるか死ぬかの切羽詰まった問題の改善こそ、急を要することです。しかし、楽しい未来を描けないでいる中で、そうした問題と向き合うなんてあまりにも辛すぎて、見てみないふりをしてしまう、のかもしれないとも思います。

 

だからこそ、とまでは言いませんが、リリムジカのようなサービスを提供する人たちが増えることも、同じく必須だと思いますし、

 

もっと単純に、元気なおじいちゃんおばあちゃんは、若者に生きる糧を与えると、個人的に思います。

 

実は種を明かすと、管くんと私は中学からの同窓で、いつかちゃんと話を聞いてみたいと思っていました。そこでたまたま、こうしたボランティアの機会をいただいたので、書かせていただきました。記事と呼ぶにはかなり個人的な思いの強いが強く客観性に欠けるかもしれません。それでも、

 

「ごっちゃん(私)が書きたいように書いて。」

 

と言ってくれた彼の懐の広さと覚悟とに甘えて、200年後の未来なんて考えたこともなかった私が、素人であることを開き直って、書きたいように書きました。

 

少しでも、何かを感じて、こうしたことについて考える時間を設けていただけたら幸いです。

 

 

彼らは先日、創業以来掲げてきた「音楽療法」・「音楽療法士」という肩書きをはずし、彼らが目指す音楽の場づくりを「ミュージックファシリテーション」、その理念のもとでセッションを行う柴田さんや梅田さんのような人のことを「ミュージックファシリテーター」と名付けました。

そこには大きな決意と覚悟がありました。

そして株式会社リリムジカは、共に働いてくれる「ミュージックファシリテーター」を募集しています。

下記のHPに、彼らの思いが現れていますので、是非彼らの活動と目指す未来に触れてみてください。

 

株式会社リリムジカ

http://lirymusica.co.jp/

http://www.facebook.com/lirymusica

 

 

P.S.

最後にもう一つだけ。

セッションに私も参加したのですが、そのときの個人的な体験をひとつ。

 

かの有名な365歩のマーチ。

「しっあわっせはー、あーるいーてこーない、」ってやつですね。

「じーんせいーはっワンーツーパンチッ!」という。

歌いながら、座りながら手足を動かす簡単な体操を織り混ぜます。

 

私はとある女性の横に座って、一緒に体操をしたのですが、その方はほとんどしゃべらず、表情も変えない方でした。

(どうコミュニケーションをとればよいのかな)

と考えながら、ただ横で、控えめに、でも動きが見えるように、歌に合わせてグーパーとしていました。

(僕のことうざいとか思ってたらやだなー)

とか思いつつ。

 

聴こえているのか、楽しいのか、いやなのか、もしかしたら何かに我慢しているのではないか。

不安だけがぐるぐる回りながらも、反応はなく、曲も終わりに近づいてきました。

 

そのとき、動かしたんです。

 

全く表情は変えずに、何を考えているのかもわからないんですが、音に合わせて、ワンツーパンチをしたんです。

いや、ワン?半?パンチくらいでしたが。

それで、横にいる私に、「にこっ」っとしてくれたんです。いや、正確には、「にっ」くらいでしたが。

 

本当に、なんというか、感動、というか、

気持が、少し伝わって、少し返ってきた、程度だと思うのですが、それだけのことなのに、思わず目頭が熱くなりました。

自分はこの方の名前も知らない、生い立ちもしらない、ただ、10分程度横にいただけなのに。

 

人生はワンツーパンチですね。

 

「50年後、K-POPを孫の代の子たちと一緒に歌って腰をふっているかもしれないねー笑」

そんな話を梅田さんが笑いながらしていました。

 

50年後。とある介護施設、歌のセッション。まだしゃべったことがないチャーミングなおばあちゃんとしゃべるチャンス。先に行ってしまった奥さんに申し訳ないと思いながら、のこり僅かな髪を絞り取るように必死にスタイリングして、こっそり練習した歌を、あたかも初めて聞いたかのように何食わぬ顔で歌う。実は演奏してくれるミュージックファシリテーターとは曲の裏打ち合わせをしてある。意中のおばあちゃんが「えー、上手いですねー」なんて言ってくれて、心の中でガッツポーズする・・・

 

楽そうじゃないですか?そういう未来って!

 

 

管君の結婚式にて。中央のクマは、奥様手作りとのこと。

 

Writer: 五藤真(Gentle Mickey)

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